伯州綿の生い立ち

国産和綿「伯州綿」のあらまし

 日本に綿が持ち込まれたのは、平安時代(794年~1185年)や鎌倉時代(1185年~1333年)との記録もありますが、本格的に栽培が始まったのは、戦国時代から桃山時代の頃です。以来、麻とともに庶民の衣服の原料として、米と並ぶ農作物となり日本中で栽培されるようになり、一時は、200種以上の地方品種があったとも言われています。  伯州綿はそんな国産和綿のひとつでした。伯州綿は浜綿(はまわた)とも呼ばれ、鳥取県境港市・米子市のある弓浜半島一帯で江戸時代から栽培が始められました。弓浜半島の自然条件が綿栽培に適していたことや、農家による改良の積み重ねによって良種が生み出されたことにより、この地域は、国内有数の綿の産地となりました。また、境港は日本海側有数の港町であったことから、伯州綿は北前船によって各地に流通し、全国にその名が知れ渡り、境港の特産品として高く評価されるようになっていきました。  その後、明治時代の関税撤廃をきっかけに、安価な外国産の綿におされ、他の国内の和綿と同様に、伯州綿も衰退していきました。

鳥取県における綿栽培の始まりと盛衰

 弓浜半島でどのように綿栽培が始まったかについては諸説があり、定かではありません。一説には、延宝4年(1676年)に備中玉島(岡山県)から綿実を移入したとされ、または一説には、周防国(現在の山口県)や広島から伝播したとされています。  いずれにせよ、他の地方から手に入れた種は、良種ではありましたが、この土地に適さず、栽培が困難なものが多かったそうです。言い伝えによれば、弓浜半島では凶作により何度も種を失ったが、そのたびに岡山や広島や四国など他の地方から種子を手に入れ、綿栽培を再開したといわれています。  嘉永年間(1848年~1855年)になり、研究を重ねた有志者が最優良の一種を選出し、広くこの地に伝えたとされています。綿は、米や麦と同じように主要作物として扱われ、弓浜半島を縦断する米川用水路の開削と共に、弓浜半島一帯に綿栽培は広がっていきました。その後も、農家は綿の改良を重ね、弓浜半島一帯で森岡棉、河崎棉、當成棉など様々な良種が選出されていきました。  最盛期の明治維新後には、弓浜半島一帯の畑地は、綿で覆われ、鳥取県の綿の9割がこの地方で生産されていたといいます。しかし、明治29年(1896年)の輸入関税の撤廃による安価な外国産の綿の流入と、その後の養蚕業の発達に伴い大打撃を受け、次第に綿栽培は衰退していき、桑や甘藷(さつまいも)に代わっていきました。  明治20年(1887年)の鳥取県における綿の栽培面積は、2,723町(約2,700ha)余りでしたが、大正元年(1912年)には400町(約400ha)になり、7分の1程に減少しました。しかしながら、日本棉は脱脂綿、中入綿等として優良である特質を持っていたため、その後は激しい栽培面積の増減はなく、綿の栽培は行われていました。大正4年(1915年)以来、農林省より特別の補助金を受けて棉花に関する試験研究を重ね、今日の優良品種を選出することとなりました。その頃、既に靑木棉、夜見屋棉、大篠津棉、當成棉、藤原棉、森岡棉、鹿右衛門、紫蘇棉の八種は純系種が完成しており、採種畑を設け原種の生産に努めて、多くの農業者の希望に応じ各地に配付されていたといわれています。  こうして伯耆の国の「伯州綿」は、弾力に富み、中入用に優れた特徴を持つ綿として、中央市場に販路を拡大し、大いに名声を博することになりました。その後は、時代と共に栽培面積は減少していき、現在に至っています。

伯州綿と境港

※ここでは地名の「境港(さかいみなと)」と港湾の「境港(さかいこう)」を区別するため、前者を「境港」後者を「境の港」と記載しています。

境の港の発展と伯州綿

 弓ヶ浜を産地とする「綿」と、日野郡を産地とする「鉄」、これらの生産と流通によって境の港は発展しました。  この地域の主要産品であった「綿」と「鉄」は、北前船によって境の港から全国に運ばれました。境の港は、江戸・明治期の国内における商品流通の土台を支える役割を担うことで急速発展していきました。江戸時代後期には、境の港の勢いは、更に前進しました。  北海道、九州間を往復した千石船にとって境の港は大きな利用価値を持ち、港は大いににぎわい繁栄しました。それに伴い境港には様々な重要施設が置かれて行きました。天保六年(1835年)には「鉄山融通会所」が置かれ、日野郡産鉄の通商と領外積出しを藩内では境港だけで行うようにするなど、名実ともに藩の重要港となりました。伯州綿やその加工品の積出し港は、米子港と境の港となったものの事実上は境に集中するようになりました。その理由としては、境港が北前航路に位置するという地理的条件のほか、弓ヶ浜という一大綿作地帯を控えていたため、当時その肥料として大量に使用されるようになった北海道産のにしん粕の売り込みに訪れる船が多かったことが挙げられます。  このように、境港は、肥料の移入によって綿の生産を支え、綿製品を各地に移出することによって繁栄への地歩を固めていきました。 また、北前船は「綿」・「鉄」などのほか混載品として、米や海産物などの日用品も輸送していたことで、他国の人々が行き交い、交易の幅も大きく広がりました。山陰一と言われた良港と弓ヶ浜という綿作地を控えた境港は、大阪方面から山陰・北陸・東北の秋田に及ぶ広い地域に真綿や木綿を移出することで大きく発展していくこととなりました。

「伯州綿」は様々なかたちで全国へ

 一口に綿と言っても船に積まれた商品は、収穫した綿から種を取っただけの素材に近い繰綿から糸・布などの加工品や、弓浜絣まで含まれていました。  弓ヶ浜半島は砂丘地として、綿作はもちろん藍の栽培にも適し、江戸後期、綿については藩内産の90%、藍については明治初期、鳥取県内産のやはり90%を占めていたといわれます。  米川用水路の開削により飛躍的に生産が高まった綿、農作業の合間に農家の主婦たちが糸をつむぎ、機を織った木綿の糸と反物、最盛期54軒を擁したという紺屋によってつくられた弓浜絣。またそれに加え吉祥紋などを描く優れた伝統技術があったので、境港では素材から製品までのすべてを生産・移出することができたのです。  このようにして「伯州綿」は、綿栽培に適した弓ヶ浜の風土と港という地理的条件によって、大きく生産を伸ばし、全国に名を馳せていきました。

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